祝?映画『隣の家の少女』公開決定


「少女は、嬲(なぶ)られ続けた」


本日Twitter上で「3月に『隣の家の少女』の公開が決まった」という話題が上がった。その場の雰囲気でid:tsumiyamaさんと、id:pontennaさんに「じゃあ娘を持つオヤジ繋がりで一緒に観ますか?」と誘うとあっさり了承。「帰りにオヤジ3人で泣きましょう」「吐かないか心配」てな具合に親バカオヤジ達と一緒に行くことになったんだけど、


本当に大丈夫なのか、オレ?


改めて『隣の家の少女』についておさらい。


隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)

1958年の夏。当時、12歳のわたし(デイヴィッド)は、隣の家に引っ越して来た美しい少女メグと出会い、一瞬にして、心を奪われる。メグと妹のスーザンは両親を交通事故で亡くし、隣のルース・チャンドラーに引き取られて来たのだった。隣家の少女に心躍らせるわたしはある日、ルースが姉妹を折檻している場面に出会いショックを受けるが、ただ傍観しているだけだった。ルースの虐待は日に日にひどくなり、やがてメグは地下室に監禁されさらに残酷な暴行を―。


さらに詳しく知りたい人は↓こちらを参照。

物語は50年代の古きよきアメリカの田舎町。スタンド・バイ・ミー風のノスタルジーをまじえながら展開されるのは、むごたらしい虐待と吐気を催すような人間の暗部に迫る最凶最悪の物語である。

公開しろ! 「隣の家の少女」を公開しろ! - 深町秋生のベテラン日記

「隣の家の少女」は本当に酷い。読書が登場人物との体験を共有する行為なら、その「追体験」は原体験レベルまで沁み渡った。地下室のシーンでは読みながら嘔吐した。その一方で激しく勃起していた。

 陰惨な現場を目の当たりにしながら、見ること以外何もできない"少年"と、まさにその描写を読みながらも、読むこと以外何もできない"わたし"がシンクロする。見る(読む)ことが暴力で、見る(読む)ことそのものがレイプだと実感できる。この作品を一言で表すなら「読むレイプ」。

http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2006/05/post_f22c.html

ケッチャムすげーなーと思いつつ、続いて手にしたのがこの「隣の家の少女」。

生まれて初めて「怖くてこれ以上読めない」と思った。完全敗北。白旗。

「隣の家の少女」について - THE KAWASAKI CHAINSAW MASSACRE

散々言ってるようにビジュアル的な残虐描写に関しては自分は不感症に近いんで、『マーターズ』や『グロテスク』でもそんなに問題ではなかったんだけど、本作はそういうんじゃないんだよ。本を「読む」、映画を「観る」、という行為自体が、主人公が少女を「傍観」する行為と重なることで、ある意味究極のバーチャル・リアリティを体験することになるのだ。小説だから、映画だから関係ないと言い切る自信がない。


加えて深町先生が書いてるように「どこの世界でも、この日本でも起きうる身近で普遍的な悲劇」でもある。似たようなニュースを何度目にしたことか。ひいいいいい。


本当に大丈夫なのかなー、オレ?


(参考)
ZOMBIE手帖ブログ:ジャック・ケッチャム原作『隣の家の少女』のチラシ


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