「ビリィ☆ザ☆キッドの新しい夜明け」について-その1(スタッフ、原作編)


長い間「心のベストテン、第一位」をキープしている、映画「ビリィ☆ザ☆キッドの新しい夜明け」について長々と書きたいと思います(誰も興味ないと思うがでもやるんだよ)。


「ビリィ〜」は1986年にパルコが配給した映画です。パルコってのが80年代っぽいですが、この映画も「80年代的面白さ」に溢れています。最近見直した友人は「痛いなー」と失笑してましたが、私は今でも大好きです。岡崎京子が「東京ガールズブラボー」の巻末に

…みんな、口をそろえて
「八〇年代は何も無かった」ってゆう
何も起こらなかった時代
でもあたしには…


と、書いていたのと同じように(少なくとも)私にとっては無視できない大事な映画になっています。主要スタッフはこんな感じ。

監督 山川直人
製作 増田通二
プロデューサー 森重晃
原案 高橋源一郎
脚本 高橋源一郎 山川直人


この映画には「原作」が一応あって、それが高橋源一郎の「60年代3部作」(「70年代3部作」という人もいてどちらが正しいのか不明)といわれる「さようなら、ギャングたち」「虹の彼方に」「ジョン・レノン対火星人」の3冊です。映画は4日間の出来事を描いてますが、「First day」〜「Third day」のサブタイトルにこれらの書名が使われていて、「Forth day」が「ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け」になってます。


さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

虹の彼方に (講談社文芸文庫)

虹の彼方に (講談社文芸文庫)

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫)


ただしこれら3冊は登場人物もストーリーも異なっていてまったく共通点がありません。それをどのように「原作」にしたかというと、小説の中で使われた「セリフ」を「カットアップ」し、再構築して映画の脚本に組み込むという手法をとっています(まるでバロウズのように)。別の言い方をすれば、「サンプリング」ですかね。また、この原作自体も既存の人物やキャラクターがサンプリングされたように大勢登場します。例えば「ジョン・レノン対火星人」にはジョン・レノン、テータム・オニール、イエス・キリスト石野真子等々。これらの手法は60年代のアメリカ文学に影響を受けているそうです。

高橋源一郎氏が80年代に発表した作品、『さようなら、ギャングたち』、『虹の彼方に』、『ジョン・レノン対火星人』は、60年代三部作と呼ばれている。それらは、発表当時、現代詩と見まごうばかりの清冽な文体で、〈斬新だ〉と評された。だが、日本文学という枠を離れて、世界文学の視点から、それらの作品を読む時、その文体は、決してオリジナルなものではないことに気がつく。彼の文体は、まるで、彼が好んで読んだ(と彼のエッセイを読んだ限り思われる)リチャード・ブローティガンドナルド・バーセルミフィリップ・ロスジョン・バースカート・ヴォネガットなど北米作家たちの、キマイラのようなのだ」
(中略)
「また高橋作品に頻出するマンガなど他メディアからの引用は、ドナルド・バーセルミがずっと前にやっていることだしね」
「パクリ過ぎだね」
「いや〈パクリ〉じゃない。〈影響〉といってほしいね。それに、この影響関係が彼の作品の価値を減じるってことは絶対にないぜ。ヒップホップのレトリックでいえば、要するに大切なのはサンプリング・ネタそのものではなく、結局、それがどのようにループされ、優れた作品としてドロップされるかってことだ」
「確かに高橋の初期作品は、どれもファットで、フレッシュで、ドープだな。今、読んでも、ね」


私自身は文学にうといのでこのあたりは正直よく分かりませんが、アメリカ文学に影響を受けて様々な素材からサンプリングして小説を書き、それらをさらに解体して映画として再構築なんて、ちょっとわくわくしませんか?ちなみに私は偶然「虹の彼方に」を読んだ直後に(原作なのを知らずに)「ビリィ〜」を見たのですごく混乱しました。「デジャブか?」って。


この話はまだまだ続きます。


東京ガールズブラボー 上巻  ワンダーランドコミックス

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ソフトマシーン (河出文庫)

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