天才伝説 - 『ソーシャル・ネットワーク』

2003年、ハーバード大学の学生マーク・ザッカーバーグジェシー・アイゼンバーグ)は、学内で友人を増やすためのサイトを親友のエドゥアルド・サヴェリン(アンドリュー・ガーフィールド)と共に立ち上げる。サイトは瞬く間に学生たちの間に広がり、ナップスター創設者ショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)との出会いを経て、社会現象を巻き起こすほど巨大に成長していくが……。


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遅ればせながら話題の『ソーシャル・ネットワーク』を観ました。


うろ覚えで申し訳ないが、町山さんが以前「主人公が最初から最後まで変わらず成長しない映画には価値がない」という趣旨のことを言っていたと思う(違ってたらスマン)。


その観点で行くと、本作の主人公マーク・ザッカーバーグは映画の最初と最後で変わったのだろうか?もちろん只のさえない学生が世界最年少の億万長者にはなったわけだけど、彼の本質は意外とそのままなんじゃないか?


冒頭でフラれた彼女に対して行う腹いせを除いて、マークにはほとんど「悪意」というものが感じられない。かつての仲間や親友は彼が裏切ったと言うが、マークにはその意味すら分からないのではないか?おそらく「その方が効率が良かったから」やったに過ぎないだけで、彼らを傷つけるつもりはなかったと思う。他人を思いやる能力が欠けているといえばそれまでなんだけど、よく言えば好きなことに対して愚直というか、子供みたいな人だよね。好きなオモチャを見つけて夢中で遊び倒してたら、いつの間にか友達は皆帰ってたとかそんな感じ。


悪意がないから罪がないとまではいわないけど、「天才」と呼ばれる人は往々にしてこういうタイプなのかなと思う。よく知らないけれど「ひろゆき」という人もこういうタイプなのかな?ネットの世界は彼らのような「金や名声等にそんなに興味がない」というタイプの天才(時代の寵児でもいいかも)を生み易いのかもしれない。


タイプは違うかもしれないけれど、デビット・フィンチャー監督自身もかなりの偏執狂だよね。『ゾディアック』の撮影地を実際の殺害現場で行うだけならまだしも、地形が変わった部分を以前とそっくり同じに再現したエピソードとか正気の沙汰とは思えなかったし。『ファイトクラブ』も初めて観た時は情報量の多さと過剰な編集に頭クラクラしたし。今回の「双子CG」もそれCGにする必要ある?って感じだしなー。天才の考えてることはよく分からん。


ラストシーン。「なーんでこんなことになったのかなー?」って素で分かってない情けない感じがとても面白かった。現実のマークではなく、映画のマークがあのラストからどうなっていくのか気になったけど、少しずつ世間というものを学習して変わっていくのかな?それがいいことか悪いことか分からないけど。


オススメするまでもなく皆観てると思うけど、今さらながらオススメ。


(その他)
・ちょうど昨日『奇跡体験!アンビリバボー』でフェイスブック特集やってた。フェイスブック本社はピクサー社みたいに遊び場がいっぱいで、マーク自身も「遊びが大好きな仲間思いのナイス・ガイ」として紹介されてました。いくら何でも映画と違い過ぎるw。アレは何?電通さんの戦略なの?