自意識過剰な告白 - 『告白』

とある中学校の1年B組、終業式後の雑然としたホームルームで、教壇に立つ担任の森口悠子(松たか子)が静かに語り出す。「わたしの娘が死にました。警察は事故死と判断しましたが、娘は事故で死んだのではなくこのクラスの生徒に殺されたのです」教室内は一瞬にして静まりかえり、この衝撃的な告白から物語は始まっていく……。


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『告白』するけど、本当にバッカじゃねえの? - Lucifer Rising


久しぶりにヨシキ所長の熱のあるテキストを読んだ。強烈な説得力に圧倒されつつも、私自身は『告白』を結構楽しく観たので畏れ多いと思いつつ私なりの感想を書いてみる(かなり的外れでトンデモかもしれないけれど)。ちなみに原作は未読。


「全編がCMのような見た目だけがいいけど中身がない空っぽの映像」という印象に関しては個人的にも同意。中島監督はCMディレクター出身だし、過去作品においても悪い意味でそのような表現を随所でしていたと思う(そこが「受けた」という現実もあるけど)。


ただ今作に関しては、かなり意図的にこのように「現実感が希薄な」「中身がない空っぽの映像」を多用したと私には思えた。


あんまし長々と書くとボロが出るので端的に書くと、「少年A」は自己を正当化するようなことを後半ぐだぐだぐだぐだ言う割に、実際は「かっこつけてるだけの空っぽな中学生」でしかない。私は『告白』における各キャラの告白シーンとは、各自の自意識映像だと思ってる。つまり「中身のない空っぽな男」の自意識過剰な心情を「中身のない空っぽな映像」で表現したのではないのかと。だから現実感もないし、どこか嘘っぽい。


少年Aを慕う少女(名前忘れた)も同じ。一見すると「誰にも理解されない私達だけの運命的な恋」を表現した陳腐で安っぽい映像なんだけど、これが彼女自身の自意識と考えれば納得できる(実際には相手の本音やズレにまったく気づいていない)。


そういう登場人物たちと、そういう演出にまんまとのせられてうっかり少年Aや少女に同情や感情移入してしまった観客に対して、ファミレスで松たか子が放つ「バカバカしい」が何と痛快なことか!そしてそう言い放つ松たか子自身が自分も少年Aと同じ種類の人間だと認識しながらも「でもやるんだよ」と行う復讐の美しさとやるせなさ。


少なくともこの映画では「少年法」とか「いじめ」とか「子どもが子どもを殺す」とかの社会派的なテーマは見せかけだけであって、実際には松たか子の復讐物語でしかない。


『告白』における「ぱっと見かっこいい映像」とは、監督自身がかっこつけてるように見せかけて、実は登場人物の「中身のなさ」を表現しているのであり、そのような映像に安易に騙されてしまう観客や、そのような映像を安易に作る作り手(過去の監督自身を含む)までも否定しているのだ。


なんてね。


告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)

告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)